内野竜太さん
妻・正子さん

移住年:2009年
職業:サラリーマン

生活環境を180度変えて
やっと見つけた私たちの理想の暮らし

龍郷町 龍郷集落

忙しさに終われる日々の中、ふと頭に浮かんだ奄美大島

内野正子さん(44歳)は奄美大島の奄美市名瀬出身で、18歳まで奄美大島で過ごす。英語が好きだった正子さんは東京の大学でさらに英語に磨きをかけ、卒業後はオーストラリアで働く。帰国し就職した先が、竜太さん(41歳)が働く米国プロバスケットリーグNBA日本法人だった。

その後、二人は2006年に結婚。竜太さんは横浜生まれで大学では法律を学んでいたが、大のバスケットボール好きで、選んだ仕事はNBAやオリンピック選手などアスリートたちをサポートするスポーツマネジメント。生きがいを持って働いていたが、海外とのやり取りもあり昼夜を問わず仕事に没頭し過ぎで体を壊してしまう。「このまま、こんなフルスロットルな働き方を続けていくのか」と人生の転機を考えるようになった。その時、正子さんの実家があり何度も訪れている奄美大島が頭に浮かぶ。自分に合う仕事がないことや家探しが大変なことも理解していたが、正子さんと奄美大島に引っ越そうと心に決めた。

①家から海へと続く道の木のトンネル。自然が今日も子どもたちの成長を見守っている。

周囲の理解が後押しした島への移住

正子さんは結婚後も英語を使う仕事をしていた。子どもは欲しかったが、なかなか恵まれずにいた。そこに、竜太さんの「島に引っ越そう」発言。いつかは島に帰りたいと思っていた正子さんだが、その「いつか」は嫁や母としての役割が終わった頃で30代とは思ってもいなかった。「生活を180度変えたい」と言う竜太さんの言葉に決断。でも、竜太さんの両親は横浜にいる。両親の面倒をいずれは見ると思っていた二人だが、「自分たちのことは自分たちでやるから、お前たちはお前たちがしたいことをしろ」と応援してくれた。

②庭に植えられたバナナの樹。庭で育った果物は贈り物にも喜ばれるのだとか。

繋がりが結んだ島での暮らし

移住を決めた直後に妊娠が分かり、正子さんの実家のある街中ではないところで子育てすると決めた。集落の物件はほとんど一般流通しない相対取引が主流。そこで、正子さんの両親が地縁を辿って龍郷町にある今の住まいを見つけてくれた。正子さんは一時子育てに専念し、竜太さんは家族の生活を支えるべく仕事探しをするはずだったが、すぐに見つかった。NPOや観光、教育関係の臨時職員などを経て、現在は福祉関係の仕事に就いている。職場が嫌になって転職したわけではなく、新しいこと、人手が急に必要になったところから自然と声が掛かる。仕事以外でもバスケットボール監督やプロ選手とのふれあい等のボランティアにも積極的だ。「僕らが今、幸せでいられるのは、いろいろな人と知り合い、つながりが持てたからだと思う。地域の子どもたちに選択肢を増やすことで、今度は僕が地域へ恩返しをしていきたい。」竜太さんはそう語ってくれた。

③集落を見下ろす場所から見える龍郷湾。青く透き通った海が一望できる。

集落の人々に見守られて

正子さんは子育てをしながら、英語講師やALT(AssistantLanguage Teacher)をこなし、奄美群島特例通訳案内士でもある。いろいろチャレンジしているが、「私の本業はお母さん業。島で生まれた二人の娘たちは、18歳になったら親元を離れていく。それまでの間、精いっぱい家庭を満喫できるようにするのが私の役目。」僻地保育所、僻地小学校にも不安はないと言う。「確かに生徒、先生の数は少ないけれど、一人一人の生徒にしっかり目を配ってくれているのはよく分かる。」

竜太さんも正子さんも集落での生活に幸せを感じると言う。毎日、同じ景色を見ているのに、眺め続けられる豊かな自然に囲まれていることもある。でも、一番は集落の人々との温かい交流。子どもが誕生した時に近所のみなさんがお祝いに駆けつけ、おじいが祝い唄を披露してくれた。おばあたちが毎日、子どもたちを見守ってくれている。ここでは、子どもの成長とともに地域の在り方が見えてくる。

内野さんファミリーは都会の生活では得ることができない「流れていくけど、流されない」集落での時間を楽しんでいる。

移住を考えている人へ
ワンポイントアドバイス

小さな幸せが積み重なって、居心地のいい毎日になり、総じて島暮らしがいいんだと思う。都会での生活と全く違う島で暮らす価値観が見出せたら、島ならではの新たな世界がどんどん広がっていくよ。